5月3日、土曜日。出かけたい。でもゴールデンウィークで混みそうなので、あまりメジャーすぎる観光地にはいきたくない。そこで思いついた。先日読んだ永井荷風の短編「深川の唄」の記述に沿って、茅場町から深川の方へ散歩するというのはどうだろうか。
もちろん深川がマイナーだ、などとというつもりはないが、東京の観光地として真っ先に思い浮かべる人はそれほど多くないはずである。外国人観光客でも訪れるのはかなりの日本リピーターではないだろうか。いや、外国人観光客の事情は全く知らないが。
そして茅場町。ここは、仕事で若干馴染みのある場所だが、一言でいえばオフィス街である。ゴールデンウィークに観光客が押し寄せる街ではない。休日の茅場町も数回訪れたことがあるが、いつも閑散としており飲食店はチェーン店以外閉まっている。何の変哲もないオフィス街でも、小説の記述に沿って進むという目的があれば、それなりの興趣が湧くのではないだろうか。
そこでこんなプランとしてみた。地下鉄東西線・茅場町駅で降りて、そこからポテポテ永代通りをまっすぐ歩く。永代橋を渡り小説に出てきた深川不動にお参りするのである。GoogleMapによると徒歩約30分。少し長めの散歩としてちょうどよさそうだ。

横浜市の自宅から電車をいくつか乗り継いで1時間強。11:00頃に地下鉄茅場町駅に辿り着き、地上に出る。写真は茅場町の交差点。思った通り平日に比べてひとけは少ない。花王本社の大きなビルがある。

さて、「深川の唄」で茅場町のあたりは以下のように表現されていた。
人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光(ひかげ)で、向角に高く低く不揃に立っている幾棟の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一つ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何にも貧相に厚みも重みもない物置小屋のように見えた。往来の上に縦横の網目を張っている電線が透明な冬の空の眺望を目まぐるしく妨げている。
散々な評価である笑。
当時はどんな眺めだったのだろう?Wikipediaの路面電車の項を見ていると、1910年ごろの兜町あたりの路面電車の写真があった。荷風が深川の唄を書いたのが1908年末ということなので、雰囲気は近そうだ。この写真の左側の建物が、多分東京株式取引所(今の東証)ではないかと思う。荷風が評した建物が直接これかどうかはわからないが、そんなにひどくない気がするけどなぁ。電線が張り巡らされて景観を損ねている感じは確かにわかる。そういえば現代の東京は無電柱化が進み、永代通りの空には電線が一本もないのであった。
ちなみに、あとでよくよく調べたところ、昔の茅場町交差点というのは、現在の兜町交差点のことだったそうだ。2022年4月に改称されたとか。上の方の現代の写真は今の茅場町交差点なので、ちょっと位置がずれていた。
さて、永代通りをまっすぐ進んでいく。これは、亀島川。この先下流の方で、墨田川に合流するようだ。

少し進んで、新川のあたりまで来た。オフィスビルが立ち並ぶ。ミツカンのビルがあるな。

そういえば、なんで新川という名前なんだろう。と思って調べると、昔はここは新川堀と呼ばれる掘割が走っていたからだそうだ。
「深川の唄」にも若干、このあたりの記述があるので引用する。
その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐留から出て三十間堀の掘割を通って来る小さな石油の蒸汽船、もしくは、南八丁堀の河岸縁に、「出ますよ出ますよ」と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴らし立てている櫓船に乗り、石川島を向こうに望んで越前掘に添い、やがて、引汐上汐の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下を横ぎり、越中島から蛤町の掘割に這入るのであった。
ここは、電車がないころ、深川には舟で行ったということを、思い入れたっぷりに語る場面。「越前堀」というのは、今の新川にあった堀で、下の図の赤い線のような感じでコの字型の掘割が通っていたようなのである。なんで越前掘かといえば、越前福井藩主の松平越前守の屋敷があったからだそうだ。ちなみに、ピンク色の線が「新川堀」で、青い線が恐らく「繁華な市中」から深川に向かう舟のルートではないかと推測した。現代は埋め立てが進んでいるみたいなので違うかもしないが。

そう言っている間に、永代橋が見えてきた。


「深川の唄」で、電車に乗りながら夕暮れ時に永代橋から石川島方面を眺める描写があるので引用する
夕陽は荷舟や檣(ほばしら)の輻輳している越前堀からずっと遠くの方をば、眩しく烟(けむり)のように曇らしている。影のように黒くたつ石川島の前側に、いつも幾艘となく碇泊(ていはく)している帆前船の横腹は、赤々と日の光に彩られた。橋の下から湧き昇る石炭の煙が、時々は先の見えぬほど、橋の上に立ち迷う。これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼は忽ち佃島の彼方から深川へとかけられた一条の長い橋の姿に驚かされた。堤の上の小さい松の並木、橋の上の人影までが、はっきり絵のように見える。
永代橋の中ほどに立って、墨田川を南方に眺めてみると、石川島の高層ビルが目立つ。現代では、石川島と佃島は地続きになっているようだ。佃島近辺は、ビルの陰になってよく見えない。多分右手の橋の奥にあるはずである。「佃島から深川へかけられた長い橋」というのは、おそらくだが相生橋のことではないかと思われる。Wikipediaでは1903年(明治36年)に開通と書いてあるので、深川の唄が書かれた1908年と前後関係もあっている。初見で驚いたときのことを描いたのだろうな。

さて、永代橋を渡り終えていよいよ深川地区。佐賀一丁目のバス停である。「深川の唄」では「永代橋の向岸で電車を下りた」と書いてあるが、このあたりだろうか?

どんどん永代通りを進んで、門前仲町駅の付近へ。だいぶにぎやかになってきた。


いよいよ、深川不動堂の入り口。「深川の唄」での終着点である。


本堂の前までやってきた。この日は、「奉納 龍神太鼓」として、太鼓のパフォーマンスが行われ、大変にぎわっていた。

「深川の唄」は、この本堂の前で盲目の男による歌沢節を聞き、感銘を受けるシーンで終わる。
自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。
まあ、こういう情緒に浸るにはちょっと今日の太鼓は賑やかすぎるかな・・・不動堂は中に入って見学できるが写真不可。中には非常に大きな不動明王の仏像がある。それ以外にも仏像盛りだくさん、見どころたっぷりで楽しめた。
思っていた以上に長くなってしまった。この後、深川めしを食べたり、清澄白河の方まで行って深川江戸資料館に行ったりしたのだが、書き疲れてしまったので割愛する。
小説にそって散歩するのは思っていた以上に楽しかった。今見るとどうってことのない景色でも、過去のイメージを持ちながら眺めると、それは特別なものに感じられる気がした。またどこか別の場所でやってみたい。