夕木春央さんによる、大正時代を舞台としたミステリー。蓮野・井口のシリーズ3作目。凄みを感じさせる小説であった。
最近書店に行くと、文庫版「方舟」の帯に50万部突破の文字が躍っているのを見かける。知人にも読んでいる人は多いし、名作ミステリーとして定番になっているようである。かくいう私も「方舟」で夕木さんのことを知った口で、あの衝撃はなかなか忘れることができない。うちの奥様なんかも「方舟」以来、すっかり夕木さんのファンとなり、全単行本を既に読破しているのである。
さて、本作は大正時代を舞台にした蓮野・井口シリーズの3作目である。キャラ立ちをあえて抑えて本格推理に焦点をあてた「方舟」とは趣が異なり、アクの強い登場人物たちがシニカルな笑いを振りまきながら事件解決にあたるこちらのシリーズも私は大好きである。シリーズものであり、前作「時計泥棒と悪人たち」とつながりはあるものの、話としては独立しているので、本書から読んでも充分に楽しめると思う。
本作は、オランダ人の実業家ロデウィック氏が日本を訪れるところから始まる。本シリーズのワトソン役である井口は洋画家だが、祖父の代に事業で財を成し、放蕩ものの父の代で没落した結果、祖父の遺産である分不相応に立派なお屋敷に、妻の紗栄子と二人ぽつんと暮らしている。ロデウィック氏の父はいわゆる没落貴族で、かつて井口の祖父に家財の「ルビーを散りばめた時計」を売って苦境を凌いだことがあった。その後アメリカで成功して財をなしたロデウィック氏は、いつかこの時計を買い戻したいと思っていた。休暇で日本を訪れたロデウィック氏は、目的を果たすために孫の井口を訪ねるのである。
私は、この井口というキャラが結構好きなのである。洋画家で、芸術家ではあるものの、エキセントリックな感じはせず、穏やかで落ち着いている。ロデウィック氏は井口を訪ねた時に、井口の作品を見て一目で気に入るのだが、その気に入った理由を「思想の気配がしないこと」と述べている。私も美術館で絵画をたまに見たりはするのだけれど、あまり主張の強そうなものや、奇をてらったものは好きではない。小説の中の文章表現だけではあるが、きっと夕木さんの頭の中にある井口の作品は、私が好きな作品だと思う。
井口の作品を気に入ったロデウィック氏ではあったが、その中で一際目を惹いたのが、「オレンジの服を着た女性の後ろ姿」を描いた作品である。しかし、ロデウィック氏はこれと似た作品を、アメリカで見たことがあるという。そして、盗作でないことが証明できたら、この作品を買いたいという。この作品を自身のアトリエから外に出したことがない井口は釈善としない。しかし、ある一晩だけ、井口の家に押しかけて来た「白鵬会」という芸術家グループのメンバーだけは、この絵を見る機会があったことに思い至るのである。
盗作犯探しから始まった事件はその後、血生臭い事件に発展する。詳細はここでは書かないが、夕木さんの描くその事件は、これまでの作品同様、道徳心の枷を外さないと思いつけないようなもので、それでいて血が凍るほど理詰めなのであった。ちりばめられた皮肉なユーモアも相まって、独特の読み心地を得られるのである。
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