大正四年、北海道の三毛別で発生した「三毛別羆事件」に基づく吉村昭さんの小説。怖かったなぁ。初版の刊行は1977年。少々古い作品ではあるが、古さは感じさせない。
北海道北西部の天塩(てしお)国苫前(とままえ)郡苫前村の山間部。三毛別川(さんけべつがわ)の支流に営まれた六線沢という村落で、子供一人が殺害され母親が行方不明となっていることが発見された。クマの仕業とあたりをつけた村の人々は隣の三毛別村に応援を求める。三毛別の区長は銃を持つ5名の村民を中心に討伐隊を編成し、六線沢を訪れたが、そこで目にしたのは想像を大きく上回る巨大なヒグマであった。
本書のことを知ったのは、ちょうど1年くらい前であったか、新潮社が催した「Wikipedia3大文学フェア」なるものがきっかけであった。
Wikipediaの中で、読みだしたら止まらなくなる面白い記事のことを「Wikipedia文学」と呼び、その記事から参照されているノンフィクション3冊を売り出すフェアということだ。面白いこと考えるなぁと、感心してしまった。そして、その中の一冊が本書「羆嵐」だったのである。それから一年もたってしまったが、今さらながら手に取った。
本書は220ページ程度でそれほど長くはないが、内容は濃密である。
まず印象に残ったのが、北海道の開拓民の過酷な生活である。熊害の被害者である六線別の村民たちは、元は東北の農夫であった。水害で耕地を失い飢えから逃れるため政府の移民奨励政策に乗って北海道に渡ってきた人々とのことだ。最初に政府から別の開拓地を指定されていたが、そこはアブや蚊が大量発生して耕作は困難を極めた上、ようやく実った作物は蝗の大群に食い尽くされてしまい、この六線別に移ってきたのである。そこでようやく実りつつあった作物が羆に食い荒らされ、挙句に冬眠しそこなった羆に人間が襲われる。あまりのことに、心が痛む。これまで寒冷地の北海道における開拓の困難さについて朧気にしか考えていなかったが、本書を読んで、本当に一端ではあると思うが意識を向けることができた。
次に、腹をすかせた羆の恐ろしさである。本書で襲われるのは、主に女と子供なのである。当たり前ではあるが、人の情のようなものは全く通じないことを改めて突き付けられる。特に、臨月の女性が襲われた時の描写には恐怖のどん底に落とされる。簡潔な文章であるところがかえって迫力を増し、実際その場にいた人々の絶望が伝わってくる。
そして最後に、知識がない事態に直面することの恐ろしさである。今でこそ羆の危険性は(本書もその一つだが)様々な媒体で繰り返し伝えられているが、当時開拓のため移住してきた人々は新聞すら読むことは稀で、他村の住人やアイヌからの口伝に頼るしかなかった。東北から来た人々にとってのクマとは、本州にいる比較的小さなクマであり、その過少評価が後の惨劇につながってしまうのである。最初は銃を手に退治に気勢を上げていた討伐隊の面々が、実物による殺害現場を見た途端に縮み上がり、冷静な判断力を失っていく過程が印象に残った。
さて、前半は羆の恐ろしさと、それに対する人間の脆弱さが浮き彫りにされ重苦しい雰囲気が漂うばかりだが、後半は羆討ちの猟師である銀四郎の活躍パートとなる。人間性は最低だが、羆退治になると滅法頼もしさを増す銀四郎がなかなか魅力的でページをめくるスピードも上がってくる。
長くなってしまったのでまとめる。実話を基にした作品ということもあり、単純に「面白かった」などと言うのは憚られるが、羆の怖さは迫力満点であり、作品に引き込まれた。また、北海道開拓の困難さを多少なりとも感じることができ、読んでよかった。
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