課長風月

疲れたサラリーマンの憩いのひと時

護国寺から雑司ヶ谷散歩

今週末の外出について奥様にリクエストを聞いたところ、「雑司が谷 旧宣教師館」という答えが返って来た。渋い選択である。というか、初めて聞くスポットである。なぜそんなところに興味を持ったのか。

 

聞いてみると、TOKYO MX の「ヒーリングタイム&ヘッドラインニュース」なる番組で知ったのだという。これはいわゆる癒し系の音楽と映像を背景に、文字ニュースを流す番組とのこと。その背景映像として「雑司が谷 旧宣教師館」が紹介されていたそうだ。隙間時間にぼんやりと見るにうってつけだとか。ちなみに、昨年のちょうど11月頃に「旧・白洲邸 武相荘」というこれまた渋いスポットに、奥様のリクエストで行ったことがあったのだが、これも同じ番組で仕入れた情報だとか。へぇ。そうだったの。

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ということで、この旧宣教師館をメインに散歩コースを組み立てた。①護国寺→②講談社→お昼→③雑司が谷旧宣教師館→④雑司ヶ谷霊園夏目漱石の墓→⑤雑司ヶ谷鬼子母神堂。我ながら魅力的なコースになった。気がする。ということで、11月15日土曜日、行ってきたのである。空は快晴、まさに散歩日和。

 

護国寺

地下鉄有楽町線護国寺駅で地上にでると護国寺の入り口正面に出る。護国寺は、5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の発願で建立されたお寺である。ちなみに、桂昌院は低い身分(八百屋の娘?)から3代将軍家光の側室となり、将軍の母にまで登り詰めたことで「玉の輿」の語源になったという説があるとか。Wikipediaには「俗説に過ぎない」と書いてあったので、明確な証拠はないのだろうけれど、話としては面白い。

お寺は、とっても良かった。境内はゆったり、広々して見所が多い。何より、観音堂(本堂)は、元禄時代から残っている建物物だとか。東京の歴史的建造物は、大半が関東大震災東京大空襲で焼失しているらしいので、本当に貴重なものである。元禄時代の人々と同じものを見ていると考えると、感慨が何倍も深くなる。

 

講談社

護国寺の前の広い道路・音羽通りは、もともと護国寺への御成道、すなわち徳川将軍家が参拝のために通る道であったとのこと。でも、私が音羽という地名から真っ先に名前が浮かんだのは講談社であった。出版社には小学館集英社を中心とする「一ツ橋グループ」と講談社を中心とする「音羽グループ」があるという話は、私が田舎の高校生だった30年以上前から知っていたのである。なんで知っていたのかは忘れてしまった。「サルでも描けるまんが教室」だったかなぁ。というわけで、わざわざ遠回りして講談社の前を通って来たのである。新刊本がずらっと並んでいて壮観。

 

こないだ読んだばかりの恒川光太郎ジャガー・ワールド」も発見!

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雑司が谷旧宣教師館

さてこの後、雑司が谷旧宣教師館に移動する。講談社からは徒歩20分くらいだろうか。静かな住宅街の中に、違和感なく溶け込んでいる感じであった。ちなみに、雑司ヶ谷の住宅街には、時々いつから建っているんだろう?というような古い住宅があったりして独特の雰囲気がある。散歩するだけで結構楽しめる。

 

アメリカ人宣教師のジョン・マッケーレブの居館だったとか。マッケーレブは、明治40年から昭和16年までの34年間、ここで過ごしたそうである。旧XX邸のような、昔の洋館の建築物はたまに見学するけど、これまで見たものは実業家とか元大名とか、華美なものが多かった。しかしこちらは、宣教師の家だけあって内装も簡素である。暮らしぶりも質素で、お金もあまりなく庭で作った自家製の野菜を食べて暮らしていたとか。でも、窓が多いせいか、屋内にも光がたくさん入り、特に今日のような秋晴れの日にはとても気持ちのいい空間である。2Fに展示されている資料を読んで面白かったのは、マッケーレブがここの土地を購入した時、実際の契約は999年の借地契約になっていたそうである。これは、当時外国人の土地の購入が禁止されていたための措置なんだとか。

 

雑司ヶ谷霊園夏目漱石の墓

旧宣教師館からすぐなので、雑司ヶ谷霊園にある夏目漱石のお墓にお参りに行き、先日読んだ三四郎の感想を率直にお伝えしてきた。「漱石先生、僕には美禰子の気持ちがよくわかりませんでした」

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雑司ヶ谷鬼子母神

雑司ヶ谷と言えば、やっぱり鬼子母神。七五三のお祝いでたくさんの家族が来ていた。しかしこのあたりになると少々疲れが出てきてぼんやり・・・。室町時代の1561年に掘り出された鬼子母神像を納めたのが由来だとか。家康が江戸に幕府を開く前から信仰が始まっていたんだな。境内の中にある大公孫樹は樹齢700年とか。凄い。しかし、ここで人気を集めていたのは、大木の元で丸くなる二匹の白黒猫なのであった。

 

長くなったのでこの辺で。楽しかったです。

 

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御茶ノ水:東京都水道歴史館

5月5日の月曜日のこと。ゴールデンウィークでもあんまり混まなさそうな観光スポットはないかなぁと、GoogleMapをつるつる滑らせていたところ目についた。

 

御茶ノ水にある「東京都水道歴史館」。

www.suidorekishi.jp

徳川家康が江戸に幕府を開いてから、現代に至るまでの江戸・東京の水道の歴史が学べる博物館である。私は最近、NHK大河ドラマ「べらぼう」の影響で江戸時代にとても興味がある。そして、こういう一つのテーマに絞って歴史を学べる博物館というのが意外と面白いことを、先日市ヶ谷にある「本と活字館」に行ったときに実感したのである。

市ヶ谷:本と活字館 - 課長風月

 

天気もいいし行ってみよう。奥様も誘ってみたが、丁重にお断りされたので(先日の深川散歩でもうクタクタだと)一人で行ってきたのである。ルートはこんな感じ。

 

御茶ノ水駅から徒歩10分程度。なお、水道橋駅御茶ノ水駅のちょうど中間くらいにあるので、どちらから行っても構わないと思う。

 

外観はこんな感じ。きれいで立派な建物である。

 

入場料無料は聞いていたが、なんと音声ガイドも無料で配布してくれる。普通の博物館だと600円くらいとられるのでこれはうれしい。見学できるフロアは、1Fと2Fに分かれており、2Fが江戸時代の水道、1Fが明治から現代までの水道についての展示となっている。

 

まずは2Fの展示から。

 

これは江戸時代の水道管。やっぱり木でできてるんだな。木樋(もくひ)と呼ぶそうだ。こういうのが、江戸市中の地下を通っていた。

 

これは、木樋やそこから水をくみ上げる上水井戸が発掘された時の写真だそうだ。こんな感じで地下を通っていたんだなぁ。ちなみにこれは旧東京都庁の移転時に発掘されたものとのこと。今その場所は、東京国際フォーラムになっているようだ。

 

神田上水の「懸樋(かけひ)」の模型。下を流れるのが神田川で、真ん中の橋になっているものが、神田上水の水道管。これが「水道橋」駅の由来だとか。勉強になります。

 

こんな感じで、懸樋の今昔写真が展示されている。私は、こういう今昔比較写真が大好きなので、これだけでも見に来たかいがあったというもの。


感心したのが、こちらの玉川上水の「水番屋」の存在。給水量が減少していないか、とか汚すやつがいないか、とかを人力で見守っていたのだ。機械化されていないので考えてみれば当たり前なんだけど、これは大変だし、人手もかかるだろう。

 


1Fは、明治以降の水道の歴史になっている。明治維新の後、江戸時代の水道設備は保守が疎かになり、老朽化や汚染を招いてしまったようだ。そして、コレラの流行が水道の近代化を促進させることになる、と。当時の虎列刺(これら)のイメージ図はなかなかインパクトがある。虎+狼+狸(の睾丸)だとか・・・

 

明治~大正期に使われていた水道の共用栓。これが江戸時代のころの上水井戸のかわりになったということだろうか。竜の口から水が出るようで、これが「蛇口」の語源だとか。勉強になります。

 

これは馬水槽。

 

こんな感じで道端に設置され、馬に飲み水を供給していたとか。そうか、このころは馬車が走ってたんだなぁ。

 

展示はまだまだ盛沢山だったのだが紹介はこれくらいにしておく。あと、東京都水道歴史館の隣にある「文京区立本郷給水所公苑」に、神田上水の石樋があるというので見に行った。

 

神田上水石碑の由来。歴史小説家の杉本苑子先生のお名前が!あとで調べてみると、「玉川兄弟: 江戸上水ものがたり」なんていう、江戸の水道関連の小説も書かれたりしているようだ。今度読んでみよう。

神田上水の水源は、あの吉祥寺の方にある井の頭池なんだな。だから「井」の「頭」なんだろうか。昔何回か行ったことあるけど、なんも気にしてなかったなぁ。

 

これがその石樋。

 


なんとなく、木樋よりこっちの方が丈夫で長持ちしそうだが、作るのにお金と時間は余計にかかりそうだ。

 

ちなみにこの給水所公苑には、いい感じのバラ園もあった。季節的にちょうど見頃なのに人も少なく、しかも無料。これは穴場なんじゃないだろうか。

 

すっかり長くなってしまったのでこの辺にしておく。

 

水道の歴史が学べる施設と聞いて、楽しそう!ワクワクする!と思う人は少数派かもしれないが(実際のところ私も正直そこまで期待していなかったが)、個人的にはかなりのヒットでとっても楽しかった。

今度、江戸時代の二大水道である、神田上水玉川上水に沿って散歩してみても楽しいかもしれない。

茅場町から深川へ:永井荷風「深川の唄」に沿って散歩する

5月3日、土曜日。出かけたい。でもゴールデンウィークで混みそうなので、あまりメジャーすぎる観光地にはいきたくない。そこで思いついた。先日読んだ永井荷風の短編「深川の唄」の記述に沿って、茅場町から深川の方へ散歩するというのはどうだろうか。

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もちろん深川がマイナーだ、などとというつもりはないが、東京の観光地として真っ先に思い浮かべる人はそれほど多くないはずである。外国人観光客でも訪れるのはかなりの日本リピーターではないだろうか。いや、外国人観光客の事情は全く知らないが。

 

そして茅場町。ここは、仕事で若干馴染みのある場所だが、一言でいえばオフィス街である。ゴールデンウィークに観光客が押し寄せる街ではない。休日の茅場町も数回訪れたことがあるが、いつも閑散としており飲食店はチェーン店以外閉まっている。何の変哲もないオフィス街でも、小説の記述に沿って進むという目的があれば、それなりの興趣が湧くのではないだろうか。

 

そこでこんなプランとしてみた。地下鉄東西線茅場町駅で降りて、そこからポテポテ永代通りをまっすぐ歩く。永代橋を渡り小説に出てきた深川不動にお参りするのである。GoogleMapによると徒歩約30分。少し長めの散歩としてちょうどよさそうだ。

 

 

横浜市の自宅から電車をいくつか乗り継いで1時間強。11:00頃に地下鉄茅場町駅に辿り着き、地上に出る。写真は茅場町の交差点。思った通り平日に比べてひとけは少ない。花王本社の大きなビルがある。

 

さて、「深川の唄」で茅場町のあたりは以下のように表現されていた。

人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光(ひかげ)で、向角に高く低く不揃に立っている幾棟の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一つ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何にも貧相に厚みも重みもない物置小屋のように見えた。往来の上に縦横の網目を張っている電線が透明な冬の空の眺望を目まぐるしく妨げている。

 

散々な評価である笑。

 

当時はどんな眺めだったのだろう?Wikipedia路面電車の項を見ていると、1910年ごろの兜町あたりの路面電車の写真があった。荷風が深川の唄を書いたのが1908年末ということなので、雰囲気は近そうだ。この写真の左側の建物が、多分東京株式取引所(今の東証)ではないかと思う。荷風が評した建物が直接これかどうかはわからないが、そんなにひどくない気がするけどなぁ。電線が張り巡らされて景観を損ねている感じは確かにわかる。そういえば現代の東京は無電柱化が進み、永代通りの空には電線が一本もないのであった。

TokyoStockExchangeWithStreetcar1911

 

ちなみに、あとでよくよく調べたところ、昔の茅場町交差点というのは、現在の兜町交差点のことだったそうだ。2022年4月に改称されたとか。上の方の現代の写真は今の茅場町交差点なので、ちょっと位置がずれていた。

 

 

さて、永代通りをまっすぐ進んでいく。これは、亀島川。この先下流の方で、墨田川に合流するようだ。

 

少し進んで、新川のあたりまで来た。オフィスビルが立ち並ぶ。ミツカンのビルがあるな。

 

そういえば、なんで新川という名前なんだろう。と思って調べると、昔はここは新川堀と呼ばれる掘割が走っていたからだそうだ。

 

「深川の唄」にも若干、このあたりの記述があるので引用する。

その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐留から出て三十間堀の掘割を通って来る小さな石油の蒸汽船、もしくは、南八丁堀の河岸縁に、「出ますよ出ますよ」と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴らし立てている櫓船に乗り、石川島を向こうに望んで越前掘に添い、やがて、引汐上汐の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下を横ぎり、越中島から蛤町の掘割に這入るのであった。

 

ここは、電車がないころ、深川には舟で行ったということを、思い入れたっぷりに語る場面。「越前堀」というのは、今の新川にあった堀で、下の図の赤い線のような感じでコの字型の掘割が通っていたようなのである。なんで越前掘かといえば、越前福井藩主の松平越前守の屋敷があったからだそうだ。ちなみに、ピンク色の線が「新川堀」で、青い線が恐らく「繁華な市中」から深川に向かう舟のルートではないかと推測した。現代は埋め立てが進んでいるみたいなので違うかもしないが。


そう言っている間に、永代橋が見えてきた。

 

 

「深川の唄」で、電車に乗りながら夕暮れ時に永代橋から石川島方面を眺める描写があるので引用する

夕陽は荷舟や檣(ほばしら)の輻輳している越前堀からずっと遠くの方をば、眩しく烟(けむり)のように曇らしている。影のように黒くたつ石川島の前側に、いつも幾艘となく碇泊(ていはく)している帆前船の横腹は、赤々と日の光に彩られた。橋の下から湧き昇る石炭の煙が、時々は先の見えぬほど、橋の上に立ち迷う。これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼は忽ち佃島の彼方から深川へとかけられた一条の長い橋の姿に驚かされた。堤の上の小さい松の並木、橋の上の人影までが、はっきり絵のように見える。


永代橋の中ほどに立って、墨田川を南方に眺めてみると、石川島の高層ビルが目立つ。現代では、石川島と佃島は地続きになっているようだ。佃島近辺は、ビルの陰になってよく見えない。多分右手の橋の奥にあるはずである。「佃島から深川へかけられた長い橋」というのは、おそらくだが相生橋のことではないかと思われる。Wikipediaでは1903年明治36年)に開通と書いてあるので、深川の唄が書かれた1908年と前後関係もあっている。初見で驚いたときのことを描いたのだろうな。

 

さて、永代橋を渡り終えていよいよ深川地区。佐賀一丁目のバス停である。「深川の唄」では「永代橋の向岸で電車を下りた」と書いてあるが、このあたりだろうか?

 

どんどん永代通りを進んで、門前仲町駅の付近へ。だいぶにぎやかになってきた。

 



 

いよいよ、深川不動堂の入り口。「深川の唄」での終着点である。

 

 

本堂の前までやってきた。この日は、「奉納 龍神太鼓」として、太鼓のパフォーマンスが行われ、大変にぎわっていた。

 

「深川の唄」は、この本堂の前で盲目の男による歌沢節を聞き、感銘を受けるシーンで終わる。

自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。

 

まあ、こういう情緒に浸るにはちょっと今日の太鼓は賑やかすぎるかな・・・不動堂は中に入って見学できるが写真不可。中には非常に大きな不動明王の仏像がある。それ以外にも仏像盛りだくさん、見どころたっぷりで楽しめた。

 

思っていた以上に長くなってしまった。この後、深川めしを食べたり、清澄白河の方まで行って深川江戸資料館に行ったりしたのだが、書き疲れてしまったので割愛する。

 

小説にそって散歩するのは思っていた以上に楽しかった。今見るとどうってことのない景色でも、過去のイメージを持ちながら眺めると、それは特別なものに感じられる気がした。またどこか別の場所でやってみたい。

田谷の洞窟

前から気になっていた、田谷の洞窟に行ってきた。場所は横浜市栄区。近所というほどではないが、かろうじて自宅から徒歩で行ける範囲にある。

 

田谷の洞窟は、真言密教の修禅道場、要するに密教の修行をする場所とのこと。洞窟自体はかなり昔から原型があったようだが、鎌倉時代に、鎌倉幕府御家人であった和田義盛の三男、朝比奈三郎義秀によって開かれたと言われているそうだ。

 

洞窟は、定泉寺(じょうせんじ)というお寺の境内から入る。

 

こちらが定泉寺。大きくはないが、きれいで気持ちの良いお寺だった。

 

受付の寺務所で拝観料を払うと、ローソクを渡される。写真のような板ベラにローソクをつけて洞窟に入る。ちょっとドキドキする。

こちらは受付でもらえる地図。思っていたよりずっと広い

洞窟の入り口。

 

残念ながら、中は撮影不可なのでここからは文字となる。

洞窟内は暗いが、適宜照明があるのでローソクが消えても歩くには困らない。また、道は平らで意外と歩きやすい。順路に従って洞窟内を進んでいくと、壁面にいくつもの彫刻が浮き彫りになっている。獅子と龍に始まり、十二神将、種子曼荼羅梵字で仏を表す曼荼羅)、五大明王、十八羅漢。さらに、秩父三十四、西国三十三、坂東三十三の観音霊場。四国八十八か所。なんというか、全部入り。とにかく数が多い。これを設計した人は、かなりの完璧主義者ではなかろうか。

 

洞窟の中は、鎌倉時代から江戸時代に渡って徐々に拡充されて現在の形に至ったものらしい。考えると色々不思議ではあるのだが、結構お客が多く、あまりじっくり見ていると邪魔になってしまう。神秘的な雰囲気に浸りきれなかったのは残念である。(あと、ローソクの火をうっかり他のお客(特に小さな子供)に当ててしまわないか心配で気が気ではなかった)

 

洞窟の成り立ち、歴史を頭に入れた上で拝観するとかなり楽しめるんじゃないかと思う。今日のところは結構駆け足になってしまったが、受付で田谷の洞窟について詳しく説明した本を買ったので、これ見て勉強した上でまた再訪したいな。

鎌倉散歩、寿福寺から英勝寺、鏑木清方記念美術館、鎌倉国宝館へ

今日は鎌倉へ。紅葉には早いとは言え、気候の良い秋の鎌倉はやはりごった返していた。ただ、小町通りなどを避ければ案外静かで落ち着いた雰囲気が楽しめる。今日夫婦でまず向かったのは寿福寺と英勝寺。奥様が「鎌倉 穴場」でわざわざ検索して見つけだしてくれたお寺で、若宮大路とは反対側の鎌倉駅西口側にある。改札を出て西に向かい、市役所前で右に折れて今小路をしばらく進むと、外門が見えてくる。

正式名称は亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさんじゅふくこんごうぜんじ)というそうだ。「かめがやつ」、ではなく「きこく」と読むのが意外。元は源頼朝の父である源義朝の旧邸があった場所で、頼朝死去後に北条政子が、僧・栄西を開山として建てたそうだ。ちょうど吉川英治の新・平家物語を読んでいるのでこのあたりの人物関係は頭に入っている。境内に入りしばらくまっすぐ進むと、山門が見えてくるが、ここから先には進めない。

 

山門から中を覗いた様子。とっても美しい。仏殿の左手にある大木が、案内板に書かれていた柏槇(ビャクシン)かなぁ。

境内を左手に回り込んでいくと墓地になり、高浜虚子のお墓や、北条政子源実朝のお墓がある。写真を撮ってブログに乗せるのは気が引けたのでやめておく。

 

境内にあった赤い実がとてもきれいだったが、名前がわからない。

 

次に今小路をもう少し先に進み、英勝寺へ。こちらは江戸時代に建てられた尼寺。太田道灌の子孫で家康の側室でもあったお勝の方が創建とのこと。元は太田道灌の屋敷だったそうだ。

 

拝観料は300円。受付の方がとても感じが良かった。お寺に接客の良さを求めるものではないけど、やっぱり気持ちがいい。


山門。スタイリッシュでカッコイイ。

 

こちらが仏殿。これもかっこいい建物。

 

仏殿の中には本尊の阿弥陀三尊像が安置されており、小窓から拝むことができる。運慶作と伝えられているとか。中の写真は気が引けたので撮らなかった。

 

 

聖観音像。比較的新しいだろうか?日本の仏像っぽくない造形。

 

ちょっとした洞窟もある

 

洞窟の中には如来坐像。

 

こちらは書院。これまた美しい建物。

 

英勝寺は見どころたくさんの良いお寺だった。

 

その後、鏑木清方記念美術館そばにあるカレー屋さんに入る。チキンカレーおいしかった。一緒に添えられた鎌倉野菜の素揚げがカラフルで気が利いている。塩味が結構利いているが、よく噛むと野菜の甘味がじんわり感じられておいしい。

 

そこから鏑木清方記念美術館へ。逆光で写真はいまいちだけど、風情のある建物である。

 

この美術館に来るのは2回目。今回の展示は「あふれる詩情と浪漫  ―鏑木清方と中澤弘光―」。鏑木清方美人画を得意とする明治から昭和の初め頃に活躍した日本画家で私も大好きである。今回の展示だと「秋宵 」という作品が良かった。

秋宵 | 鎌倉市鏑木清方記念美術館

女学生が、洋館のテラス?のようなところで、バイオリンを弾いている。清方が、妻の照をモデルに描いたそうだ。和装にバイオリンという少しミスマッチな組み合わせが、なんとも良いのだ。

もう一人の主役である中澤弘光については、今回初めて知った。清方が尊敬していた先輩の洋画家とのこと。残念ながら私的にはそれほど好みではなかった。洋画なので立体的で陰影があり、より写実的なのだが、私はすっきりした清方の日本画の方が好きだな。

 

作品は写真不可だったが、岩絵の具が写真OKだったので撮ってきた。青と緑の種類の多さに驚く。古代緑青とか鶸色とか名前も美しい。

 

最後に、鎌倉国宝館へ。鶴岡八幡宮内なので、行き道はものすごい混雑していたが、国宝館自体はゆったりとみられる。


鎌倉国宝館は、多くの仏像をケースを通さず間近で見られる素晴らしい美術館で、今年は4回くらい行っている。常設展の方は、いつも概ね同じ仏像が展示されているのだが、たまに展示替えがある。円形の室内は中央に薬師三尊像、それを囲むように十二神将像が配置されている。さらにそれを外周から取り囲むように様々な仏像たちが配置され、観覧者は十二神将と外周の仏像の間を通ってじっくり鑑賞できる。いつ行っても良い。いつもは一人で行っているのだが、今日は奥様に国宝館のすばらしさを紹介できたので満足であった。(少々眠そうではあったが)

 

 

旧白洲邸 武相荘に行く

東京・町田市の鶴川にある旧白洲邸・武相荘に行った。

白洲次郎・正子夫妻が戦中に疎開先として購入した農家を手直しした邸宅で、現在はミュージアムやレストランとして一般開放されている。これも最近、大正から昭和初期の小説にはまっている奥様の提案。武蔵国相模国の間にあることに、「無愛想」をかけて「武相荘」。洒落てるなぁ。

 

中に入ってすぐのカフェスペースに、クラシックカーが設置されている。説明書きを読んだところ、1916年型ペイジ Six-38というアメリカ車で、次郎が本当に使っていたものではなく、その同型車ということだ。17歳のころ、父から買い与えられたと書いてあるので、相当な資産家だったんだな。

 

茅葺き屋根の母屋が現在はミュージアムとなっている。

中は写真撮影不可。現在は「武相荘の秋」展で、次郎・正子夫妻が秋に使用していたという食器や着物などが展示されている。食器は陶磁器が中心で、模様はそれぞれだが統一感があり、部屋の色、家具の色ともうまく調和している。相当なお金持ちなんだろうけど、威圧感は皆無。こんな家に招かれたらくつろぎすぎて帰りたくなくなりそうだ。「趣味がいい」っていうのはこういうことなんだな、と分かった一日であった。

 

お昼は併設のレストランで、私は次郎が好きだったという親子丼。おそらく白だしで作ったと思われるつゆは、薄味だけどしっかり風味が感じられてなかなかおいしい。

奥様はチキンカレーを注文。ドレッシングはかけずカレーにまぜて食べてほしいとのこと。生野菜が嫌いだった次郎がカレーに混ぜて食べていたというエピソードにならった演出らしい。これも間違いなくうまそうだ。木の椀に盛られたスープが気が利いている。

デザートにどら焼きまで頼んでしまった。抹茶アイスが挟まり、どら焼きというよりパンケーキのよう。やや固めの生地はしっかり歯ごたえがあり、新鮮な食感であった。

食後は散策路へ。竹がきれい。それほど広くはないので疲れることなくゆっくりと楽しめた。

 

よい休日だった。